スライド・トークショー『珍・日本紀行』のジャンルのひとつに発祥地を巡る『ニッポン魁 ( さきがけ )物語 』があります。
今回は、その中から床屋さんの発祥をご案内しましょう。
床屋さん『魁物語』は鎌倉時代に遡ります。
亀山天皇に仕えていた京都御所、北面の武士・藤原基晴 ( 北小路蔵人之頭 ) は宝刀が盗まれた事件の責任をとり、辞任して三男の采女之亮政之を連れて、宝刀を探索のため、当時、蒙古襲来で風雲急の長門の国・下関に下りました。
元晴父子は下関で髪結をしていた新羅人からその技術を学び、往来の武士を相手の髪結所をひらきます。
人の集まるところで情報を得ようとしたわけですね。
その場所は現在、櫛と剃刀がモニュメントされた記念碑が建ちます。
下関は亀山八幡宮の近くにあります。
(下関理容美容専修学校が平成7年に建立した碑です)
さあ、ここで『床屋』の語源デス!
元晴父子の店には亀山天皇と藤原家の先祖を祀る祭壇をおいたスペース、間ですね、床の間がありました。
人々は
床の間のある店
と呼ぶようになりました。
それが転じて「床場」さらに「床屋」という屋号で呼ぶようになったのです。
―― 以上、床屋発祥でした。
おっと、終わっちゃ行けない。まだ先がございます。
藤原元晴は宝刀を探し出せず、無念の思いで弘安元 (1278) 没します。
子の政之は床屋を続けながら宝刀探索を続け、豪商の協力により捜し出し、天皇に奉還することができました。
めでたし、めでたし。
ついでながら後日談も記しておきましょう。
正之は鎌倉に移り、幕府より京風の髪を結う髪結職人として重用され、屋敷も賜り代々、その職を継承することになりました。
時は流れて元亀3 (1573)17 代目の藤七郎の時、信玄の戦いで敗走中の家康を助けた功績により、江戸開府後、江戸八百八町の髪結職の営業権を与えられました。
(また代々、橋見守役や火事の時は奉行所の重要書類を搬出などの役目もおおせ付かったといいます)
さて床屋と申しましても、現代人の感覚では理容ですね。
魁物語を綴っておりますからサービスしましょう。
理容の発祥
それは幕末のこと。
「お〜い、外国人のヒゲを剃ってくれ」
髪結師だった松本定吉と小倉虎吉が外国船へ出向きアルバイトで髭剃りをしたのがきっかけでした。
二人は外国人理髪師の散髪技術を覚え、明治2年『西洋散髪司』と名乗って店開きしたのに由来します。
元祖西洋理髪師・松本定吉之墓が下の写真です。
小倉さん関係者の方へ。
私め、横浜人ですから山下町で店開きした松本定吉さんの贔屓をお許し下さい。
そんな明治維新にあって最先端技術であった理髪も
「もう何年も床屋に行っていないなぁ」
短髪でも美容院という方も多いでしょう。
理容の世界は美容に押され気味です。
日本列島タウンウォッチを通じても、床屋さんは元気のないように伺ってしまいます。
そんな中、愛媛の小さな町ではこんな床屋さんがありました。
廃業したのかなと、近くば寄って見てみれば、営業中の看板が下がり、現役なので驚かされました。
店名はなく、農協理容部です。 実は日本各地に、この農協理容部という施設が点在していて、かねてより、どんなものかと興味があったのものですから、
「そうだ、ヒゲを剃ってもらおう」
探検を試みたのですが、これといったネタの収穫はなし。
農協理容部という施設に惹かれたわけですが、フツ〜の床屋さんでした。
そして久々の顔ぞり
女の人だったら楽しかったろうなぁ、つくづく思いました。
いいオヤジの顔が間近というのは気持ちが悪いものですね。
それも息がかかる。ぞくっとしました。
ソレより何より、焦ったのは、オヤジさんは花粉症なのでしょう、鼻水がたまるのが下から見えるのです。
「マスクくらいしろよ」
とは思いつつ、刃物をもってますから文句も言わず、剃って貰いましたが
「技術だなぁ」
店を出る時、つい捨て台詞が出てしまいました。
その私めの背中にオヤジは自慢してこたえます。
「技術? よく褒められるよ。顔ぞりは自信があるんだ」
そうじゃない、鼻水を落とさない技術だ!
…時節柄、花粉お見舞い申し上げます。
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