大分に『たけた』と読む竹田市があります。
「♪春高楼の花の宴〜」
御当地、竹田駅に降り立つと『荒城の月』のメロディが流れます。 まさに旅情あふれる旅のB GM でございます。
滝廉太郎は竹田に三年間住んでそのとき親しんだ岡城跡への郷愁が『荒城の月』を生んだとされてるのがその由来です。
瀧廉太郎先生は竹田のシンボル岡城址岡城址に往時の姿を偲ばせていらっしゃいます。
ところがこの像は二代目。
悲運の初代銅像があったのです。
初代製作者は竹田出身の彫塑家大塚辰夫氏で作品は岡城址におかれました。
ところが事態は一変します。
あの名物『文化市長』こと上田保氏がオフィシャルな銅像を大分市に建立することになります。
(大分は終焉の地で墓もある縁でした。右が瀧廉太郎の墓です)
上田市長が依頼したのは日本の美術史にその名を残す朝倉文夫氏だったのです。
大分市に建立するだけなら何も問題はなかったのですが
「竹田にも贈りたい」
二体を依頼しちゃったから、さあ〜大変。
(というわけで全く同じ像が大分市内の遊歩公園にあります)
名は違えど大塚氏は朝倉氏の弟でございます……。
かくて、お城には朝倉氏製作のもの、そして大塚氏製作のものは竹田小学校に移されたのでした。
はい、初代銅像を求める旅をして参りました。
ところが
「小学校にない ? 」
校舎が移転していたのです。
旧小学校時代を知る先生にお尋ねしても
「銅像はお城にありますよ」
御存知ないというより、初代銅像の存在を否定なさいます。
駄目で元々、観光協会に電話を入れますと
「聞いたことがありません」
やはり無駄と思いきや
「ちょと、お待ち下さい。今、観光ボランティアガイドをされている方に代わります」
この声に救われた思いがしました。
さあ、御当地『有識者』の発言を記します。
「銅像はお城にひとつあるだけです」
が〜ん、失望の二文字で立ち去ろうとしていた私めに
「思い出しました〜。瀧廉太郎か分かりませんが人物像がありました〜」
小学校の先生が追いかけてきて下さいました。
「うろ覚えですが木々の間に埋もれていました」
このお言葉を頼りに廃校となった跡地で捜すこと一時間……。
ないと言われた銅像発見
瀧先生、やっとお会いできました。
レンコンの町・竹田には先生の名前をつけた『蓮太郎トンネル』なんてのが出来るくらい、先生は竹田の観光に永年、貢献なさっています。
……灯台下暗し。
その顕彰がためつくられた最初のお姿が今は竹田の人から忘れられています。
先生のお過ごしになられた時代は、さぞや美しい国であったことでしょう。
日本再生は教育と言われています。
ところがその最たる小学校からも先生は置き去りにされてしまったのですね……。
な〜んて、銅像に向かって語りかけちゃった次第です。
野晒しのまま朽ち果てようとしているお姿、とくとご覧下さい。
日本で一番可哀相な銅像とご紹介しておきます。
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