07年12月18日
 

 歴史のスターは架空の人物もいますが、ほとんど実在した人物です。
 そんな一端を写真でご覧戴きましょう。
 平家物語でお馴染み、義経の身代わりとなって戦死した佐藤兄弟の菩提寺(福島は飯坂温泉近くの医王寺)を尋ねれば

 …お分かりでしょうか?
 末裔の方、すなわち子孫の方々が奉納した石柱が立っています。
 実在した人物ということは、その子孫の方たちも実在しているわけです。
  それは教科書に出てくる誰もが知っている人物ばかりではありません。
 熊本の天草に行けば、この写真です。

 子孫の方がご先祖様を誇りに思い、歴史の1ページを飾った場面を伝える努力をしていらっしゃいます。
  私め、今日まで幾人もの子孫の方たちとお会いしてまいりました。 そんな方たちの極めつけが

 キリストの子孫と会いました
 浦島太郎の子孫と会いました


 な〜んて言っても信じてもらえないでしょうね。
            ……ヒッ、ヒッ、ヒッ。

 

 子孫・写真集はスライド・トークショー『珍・日本紀行』でのご紹介にとどめましょう。
 
Web で紹介してご迷惑をお掛けしてはという、配慮で今日まで遠慮してまいりました。

「よくご先祖様のことを知って下さっていますね〜。いいですよ、ボクでよければ」
 快諾して下さった『ご子孫さま』がいらっしゃいました。

 いいオトコでございましょう。
 六彌太尚之さん。
 役者さんを思わせる風貌ながらギョ〜カイの裏方さんです。
 ジャズシンガー・阿川泰子さんのマネージャーをつとめていらっしゃいます。
  苗字の「ろくやた」は珍名さんで、日本で六家しかないといいます。
 その六彌太さんのご先祖さま、ご案内致しますと…。
 それは冒頭、佐藤兄弟と同じく平家物語です。

 一の谷の合戦で敗れた西軍の大将・平忠度が屋島に渡り、形勢を立て直そうと、両馬川(現在の明石市)まで来たところで、源氏の岡部六弥太忠澄に討ちとられました。

 写真は平忠度の(たいらの・ただのり)亡骸を埋めたという明石にある忠度塚。
 ちなみに忠度の役名は薩摩守(さつまのかみ)。
 そして『ただのり』の名前から『無賃乗車』を『薩摩守』と言った語源のもとで、カード化される前は、キセルした切符が塚の前に奉納? されていたそうです。

 忠度を討ちとった武勇高き、鎌倉御家人・岡部六弥太忠澄。
「おかべろくやた・ただすみ」
 六彌太さんのご先祖さまです。
 所領は埼玉県の岡部。
 岡部の領主・六弥太でありま〜す。
 墓は、もちろん岡部にありました。
 …奇縁でした。
 六彌太さんにお会いする2日前に、岡部六弥太のお墓参りをしたばかりだったのです。

 野ざらしでなく、覆い堂で保護された立派な墓所でした。
(父・行忠、畠山重忠の妹といわれる夫人・玉の井の墓碑もある六弥太一族の墓所)
「あれ、お線香をあげられない」
  鍵が掛けられ、内部には入れないようにしてあったのです。
  この厳重さの意味はアップでご覧頂ければお分かりになるでしょう。

 六弥太の墓石は削られて変形しています。
 墓石の粉を煎じて呑むと子のない女子は懐妊し、
 乳の出ない女子は出る
 
という迷信が伝わっているからです。
 何か迷信のモトはあったのでしょうが、現時点は不明で私めの研究対称でございます。

 ですから、本来はこうしてご紹介するのは控えるところです。
 先馳せながらここにご案内させていただきましたのには

「岡部六弥太…否、岡部六弥太公は」

 
六彌太さんと話す時、歴史のスター・岡部六弥太を呼び捨てにしては失礼という思いがして敬称をつけました。
 これ、人間の心理ですよ。
 子孫の方を知ってしまうと、呼び捨てに出来なくなるものですね。 それは有名人、プロ野球選手にも通じます。
「上原が三者三振をとった」
  と言っていたのが、上原投手と知己になれば
「上原クン凄いよな、三者三振だぜ」
 となりましょう。

 六彌太さんとお会いして
「信長じゃない信長公。親鸞じゃない親鸞上人」
 語る時は尊称をつけるべきと教えられました。

 歴史フリークの皆様、
「近藤が、土方が、新選組が」
 酒場で声高に人物評していらっしゃることでしょう。
 隣の席に歴史のスターの子孫がいるかもしれませんよ〜。
 …呼び捨ては、許されるでしょう。
 でも、悪評は禁でございます。

 

 
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