08年02月12日
塩瀬 饅頭
 

 先週、2月6日『いきいき演芸会』(千代田区いきいきプラザ)はサムライ日本さんのミニスペシャルを開催しました。
「お客さん来てくれるかなぁ」
 この日は雪が舞い、集客が気になっているところ
「こんにちは〜」
 お世話になっている渡辺誠一画伯(切り絵画家でありパズル作家)がおいで下さりました。
 極寒の中、ご来場いただけるだけでも感謝感激のところ
「召し上がって下さい」
 私めの大好物、塩瀬のお饅頭を頂戴しました。
 渡辺画伯は気配りの達人ですから、以前にお会いした時、おそらく私めの好物をご記憶されていたと思われます。

 そんなお人柄だからでしょう、渡辺画伯は歴史にも造詣ふかく、歴史サークル『史の会』の事務局長がごとく支えていらっしゃいます。 それより何より、やっぱり塩瀬のお饅頭はうまい!
 そうです、歴史フリークなら一度は食していただきたいものです。 渡辺画伯に感謝の念をこめて、今回は私め流『塩瀬饅頭』の巻、始まり〜。

 それは20代半ばの頃でした。
 京都建仁寺を訪ねた時
「我国饅頭之祖林浄因塚」
 観光施設ではない塔頭の両足院というお寺さんの門前に古い石柱がありました。
 そしてシャッターを切ったのが下の写真です。

林浄因

 合塚とあり、林浄因の墓とされていました。(当時)
「とりあえず写真にとっちゃったけど誰だろう?」
 初めて旅先で出会ったものを調べるということをしました。
 この合塚は私めの旅が物見遊山から歴史散歩に代わった記念碑です。
(墓ではなく林浄因が、わが国初の饅頭をつくり、子孫たちが受け継いだ由来を記した碑)
 合塚に記された塩瀬の歴史をご案内しましょう。

 饅頭発祥記

 1341 暦応4年。
 足利尊氏が征夷大将軍の頃のこと。
 京都建仁寺二世の僧侶、龍山が宋へ 40 有余年にわたる留学を終えて日本に帰ることになりました。
 龍山を師事していた宋の人、林浄因(りんじょういん)も龍山を慕い来日しました。

 時あたかも戦乱の南北朝時代です。
 浄因は京都嵯峨野・天龍寺で過ごす龍山のもとにいましたが、戦禍を避けるため、奈良に移り住みました。
 そして現在の漢国町、漢国(かんごう)神社のあるあたりで饅頭屋を始めます。
 これが饅頭の元祖となるわけです。

 
浄因のつくる饅頭はアンコというものがなかった時代、空前の甘味を提供し大ヒットとなります。
(当時の奈良は仏都であるとともに、食料、生活用品、商工業の座が多くあり経済活動が盛んでした)

「禅師、お元気ですか〜」
 浄因は、ことあるごとに饅頭をもって京都の龍山禅師のもとを訪ねます。
 その饅頭は天龍寺に集う上流社会の人々を魅了しました。
 饅頭の評判は宮中にのぼり
「朕も食べたい」
 
ついに後村上天皇に献上されるまでになったのです。

 天皇は、たいそう喜び、浄因の饅頭のとりこになります。
 今で言う、宮内庁御用達、禁裏御用の元祖でございますね。
 浄因は天皇のお気に入りとなり
「ひとり身では寂しかろう」
 宮女をくだされるほどのご寵愛でした。

 浄因はこの結婚にあたり紅白の饅頭をつくり諸方に贈りました。

(そのうちのひと組を子孫繁栄を願い、大きな丸い石の下に埋めたました。これが漢国神社境内にある林(りん)神社の裏に「饅頭塚」として今日まで残っていますが…私めの写真リストにはございません。悔しいかなアナログ時代で紛失してしまいました)

 今日のおめでたい、紅白饅頭はここに由来するわけでございます。

 
浄因はその後二男二女を授かり、室町末期の茶道興隆期、茶会が盛んになり、お茶菓子は時流にのり、大繁盛します。  
 
 …が。
 浄因は龍山禅師が亡くなると妻子を残し中国へ帰国してしまいます。
 公式発表では
「心の師を失い望郷の念がつのった」
 と、あります。
 意外な方の説を記しておきましょう、あの司馬遼太郎センセ〜は
「高ピーの宮女とそりが合わなかった」
 司馬センセ〜がおっしゃると真説に聞こえるものです、ハイ。

 帰国後の浄因は歴史から消えてしまいます。
 ところが饅頭は時を超え現代にまで美味しさを伝えてくれました。

 その後の饅頭史 

 残された妻子が商いを続け子孫が受け継ぎました。
 さぞや繁盛したのでしょう林家は奈良と京都に分かれました。

 奈良に残った林家が南家。京都に出た林家が北家。
 林家といっても三平さんとは違いますよ、「リン」でございます。 
 奈良南家はその後、質屋に転業。
 京都林家は京都北家、京都南家と分かれた後、京都北家が後世、塩瀬と名を変え現代の塩瀬総本家へとつながります。

 林が塩瀬?
 
応仁の乱で戦場となった京都では商売ができません。
 しかたなく疎開することになります。
 林浄因三世の妻が三河塩瀬を領地としていた豪族の娘という縁で現在の愛知県新城市に身を寄せました。
 こうして乱の後、京都で再開するにあたり、豪族塩瀬氏の名を名乗った方が安全であろうと改名したと言われています。

 多くの老舗は
「江戸の味を現代(いま)に」
 宣伝文句にしていますが、塩瀬はケタが違いますね。
 室町時代からです。
 360 年の系譜があるのでございます。
 歴史フリークの方、是非一度お試しあれ。
 
 最近、酒量が減った分、甘味を楽しんでおります。
 とりわけ和菓子は塩瀬のように奥が深いものでございます。

 ただ、同じ「わがし」でも「我が師」青空うれしは……寄る老いでございましょうか、言動があやしくなってまいりました……おっと、ヤバイ。ここまでにしておきましょう。

 というわけで、渡辺画伯のおかげで、塩瀬の歴史を改めて味わせていただきました。
 ご馳走様でした。

 

 
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