仕事の合間に訪れた御当地の散策に出ようとすると
「ご一緒してもいいですか?」
時折、お供が付いてまいります。
先日、倉敷に行った時、
「遊歩さん、よく人に声を掛けますね〜。最初はナンパするのかと思いましたけど、道を尋ねてるんですね」
お供をした舞台スタッフの台詞に、ハタと感じ入りました。
私め、日本で一番、道を尋ねているのではないかと…。
そうそう、用がなくても
「地元の人だな」
と察知すれば通りすがりに
「こんにちは〜♪」
挨拶の言葉が出ます。
これは、登山家の人が行き交う時に
「こんにちは」
声を掛け合っているのを見て、実に爽やかに感じたものですから、町歩きの時に真似てやっているうち、習慣になりました。
旅人の私め、いつも観光客を見て思うことに
観光客は名所旧跡を知ろうとするが
御当地の人を知ろうとしない
県民性という、人間ウォッチングをしていないのです。
「今日は何人、御当地の人と話ができるかな」
これまた、旅の醍醐味でございます。
そんな私め流『人国記』から、
「道を尋ねた時、御当地の人は?」
その県民性は道案内からも、かいま見えて参ります。
・親切に教えてくれるところ
まず最大級の感謝の念ともに、絶賛したいのが四国四県です。
それを
「おせったい」
といいます。
やはり四国遍路、お遍路さんに優しく接してくれる DNA があると思います。
そして、的確に道案内をしてくれます。
ーーここが肝心なのです。
それは、京都の方にもいえるのですが、親切プラス、的確に、正確に、その道のりを教えて下さるのです。
教え方が旨い
こう言い換えましょう。
人に教えを乞うていて、失礼な表現となりますが
「親切な人は教え方がヘタ」
よけいなことを教えてくれちゃうんです。
余分なことを教わるから、その結果、分からなくなってしまうのです。
例をあげてみましょう。
その商店街に入って、ず〜っとまっすぐ行って下さい。
しばらくすると左側なケーキ屋さんがあります。
でも、まずいですから買わない方がいいですよ。
そのケーキ屋さんのところを右に曲がって、
どんどん行くと大きなお寺があります。
境内に樹齢二千年の楠がありましてね、
天然記念物に指定されていますが、
そこまで行くと行き過ぎですから、
そのお寺の手前を左に曲がって下さい。
如何ですか?
これじゃ道案内じゃない。
むしろ
「駅を降りたら左側を行って三つ目の信号のところを右に」
簡潔に言って下さった方が分かりやすいのです。
――例に挙げたのは作り話と思われますか?
とんでもない、このタイプの人は多いんですよ〜。
では、もっと作り話のような例をご紹介しましょう。
「たしかこの近くだと思うのですが鳥海さんというお宅を御存知ないでしょうか?」
と尋ねた時のことです。
「鳥海、鳥海、鳥海さんねぇ、ああ、だったら、これ行って四つ角になるからね。そいつを右に曲がって、一軒、二軒、三軒、たしか四軒めかな」
鳥海さんですか?
「そうじゃないよ。そこは八百徳って八百屋で、ここの野菜はいいよ。無農薬。その八百屋から一軒、二軒、三軒目だ」
鳥海さんですか?
「そうじゃない郵便局。そこを左に曲がると新しく建った三階建てのマンションがあって、その手前の二軒目が」
鳥海さんですか?
「そうじゃない望月ってクリーニング屋。斜めに細い路地があるから、そこをお入りなさい。するとバス通りに出る。信号を渡った右に豆腐屋がある。その豆腐屋の隣が」
鳥海さんですか?
「いや、そこに交番がある。そこで聞きなさい」
実話でございます。
でも、まだイイ方です。
「法光寺」
を尋ねたのに
「報広寺」
な〜んて、間違いを教えられることが多いからです。
寺を尋ねたのに神社を教えられたこともありました。
道は1人に尋ねるな
旅の鉄則です。
但し、例外があります。
それは大阪です。
大阪の人も親切……というより、親切過ぎて困っちゃうのです。
「ほんまやったら南行って、どんつきを北なんやけど、見えるやろ、郵便局、あっこを手前に入ったらええよ」
大阪の人は合理主義で近道を教えてくれようとするのですが
「父ちゃん何、間違いを教えとんの、その先のコンビニ曲がった方が近いやんか。兄ちゃん、郵便局やない、コンビニ曲がらはったらええよ」
「ナンやねん、郵便局や、郵便局の方が近いでぇ」
「アンタ、うちに逆らうんかいな、えっ、しょうもない、パチンコばかりしょってからに、商売はウチに任しきりおって、このドアホ」
「なんやと、このボケカス」
夫婦喧嘩が始まってしまいました。
ーーこれ、大阪の県民性を如実にあらわしています。
大阪の人は好奇心旺盛ですから、道を尋ねている場面に遭遇すると「ナンやねん」
と立ち止まるばかりか
「ちゃう、ちゃう。ワシが教えたる」
別の行程を教授しようとする習性があるのです。
ですから、混乱して訳が分からなくなります。
大阪は要注意です
大阪で道を聞く場合は
「この人」
と定め、小さな声で尋ねることです。
これ、ゆめゆめ忘ることなかれ。
――でも、尋ねられただけ、ヨシとしましょう。
道を聞きたくても、聞けない地があります。
それは鳥取、島根です。
さすが人口の少なさを競っているところゆえ
「人が歩いていない〜!」
泣きます、はい。
携帯ナビに頼るしかありません。
さて、皆さんは道を尋ねて無視されたことはありませんか?
無言で通り過ぎて行かれるどころか嫌な顔をされたことはありませんか?
私め流『珍・人国記』として記しておきましょう。
日本で一番、不親切なところは『名古屋』だと。
私め、名古屋では道を聞きません。
迷惑がられ、不快な思いをさせられるからです。
ところが、ここに
「道の尋ね方」
という、作法の原点があります。
以前、新宿にあった宝くじ売り場に、こんな貼り紙がありました。

道は教えません
人を遮断するメッセージです。
売り場のおばちゃまに、その意図を尋ねますと、
教えたって礼も言わないヤツばかりで
腹が立つから教えない
――分かるなぁ、これ。
私め、日頃より尋ねることばかりですから、尋ねられたら、恩返しのつもりで懇切丁寧に説明しているつもりです。
ところが宝くじのおばちゃんのように、御礼の言葉がないばかりか「ナンだ、こいつ?」
人に教えを乞う態度ではない。不遜な輩は多いのです。
名古屋人の冷遇は、こんなところに起因しているのかもしれませんね。
そんな名古屋で気持ちよく道を教えて貰える方法があります。
それはお店で尋ねることです。
ガム、飲み物、ちょっとした買い物をしたところで
「ところで道を尋ねたいんですけど」
と、切り出すのです。
あの名古屋人が笑顔で丁寧に教えてくれます。
それは見ず知らずのヨソモノではない、
『お客様』
となった結果ですね。
「教えを乞うだけなら乞食と同じだぎゃあ」
名古屋から『道の尋ね方』を教わりました。
電話番号を尋ねる 104 も 105 円とられる時代です。
道は無料で聞くな
私めの『旅・スタイル』でございます。
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