親戚がナショナルショップをしていたからでしょう、子供の頃から家電はナショナル。松下製品には、ひときわ愛着があります。
そうそう、バブリーな時代は松下グループの仕事で生計が成り立っていました。
ひとつの時代が終わったのでしょう松下の名前が消え Panasonic となります。
2/18 (月)浅草東洋館という寄席出演。
寄席ではありますが松下電器の話をしてみたい。
それは松下幸之助翁が浅草の恩人だからです。
お客さん、ついて来られないだろうな…。
でも、分かる人には分かってもらえるだろうと、
落語の人情噺風にまとめた『浅草の恩人・松下幸之助翁を偲ぶ』をcoba 『過ぎ去りし日々』にのせて朗読しちゃいました。
今回はその模様を掲載。
浅草のシンボル雷門。
戦災で燃えしまったものを再建してくれたのは松下幸之助翁。
あの大提灯も、下の部分に松下電器産業松下幸之助寄贈と記されています。
松下電器はパナソニックとなり松下の名前は消えますが雷門にはその名が残ります。
忘れられようとしている浅草の恩人松下幸之助翁が社長時代、松下電器に、非常に陰気な社員がいました。
無口で、いつも沈んだ顔をしている。
それはそれは、くら〜い人でした。
こんな社員は、営業でお客さんの前に出せない。 内勤の事務職へと配置されます。
するとその職場は一気に暗くなり
「あいつがいると仕事する意欲がなくなるんだよなぁ」
仲間にうとまれ、次から次へと職場を変えられ、
いつしか
「貧乏神」
あだ名されるようになりました。
その噂は松下幸之助翁の耳にも届き、貧乏神の上司が呼ばれました。
「きみの部署に貧乏神という、すばらしい人がおるそうやな」
上司は耳を疑います。貧乏神を素晴らしい人と社長が誉めるのです。
「きみなぁ、ものは考えようやで。松下電器ぐらいになったら、お得意さんはじめ、関係先がぎょうさんあるわな。そこできみ、葬式はどのぐらいあるんや?」
「…はあ、そうですね。週に二、三、多い時で五、六回でしょうか」「そうか、その人、葬式係にしたらどうや。貧乏神と呼ばれるくらい暗い顔しとったら、葬式にうってつけやないか。どや葬式係や」
翌日、貧乏神に辞令がおりました。
松下電器産業(株)人事部 葬式課長に命ず。
…松下幸之助翁。
明治 27 年に生まれ。平成元年 94 歳でなくなりました。
大変な長寿の人です。
「体が弱かったから長生きできました」
こう語っています。
普通、病弱ということは短命をイメージしますが
「もし健康だったら、仕事で無理を重ねて早死にしていたろう」
…体が弱いおかげで長生きできた。
94 年の生涯はつねに
「ものは考えよう」
プラス思考、ポジティブシンキングの人でした。
浅草の恩人・松下幸之助翁に学ぶことそれは「発想の転換」です。
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