人は旅に出れば
「何でも見てやろう」
好奇心が旺盛となります。
ところが、自分の住んでいるところには全く無関心。
「御当地のお宝を再認識して下さい」
スライドトークショー『珍・日本紀行』を通じて、人様に訴えております。
「灯台下暗し」
自分自身も戒め、ここのところ、生まれ育った横浜と永年住み続けている新宿の歴史散歩を洗い直しています。
その横浜は山手でのことです。
写真は本牧山妙香寺の入口です。
立派な由来碑が建っています。
はい、ここは知る人ぞ知る歴史の舞台でございます。
君が代由緒地とあります。
その由緒、ご説明しましょう。
時は明治2年。
薩摩藩は英国をお手本に
「軍楽隊をつくるぞ」
伝習生
30 名を横浜に送り英国軍楽を学ばせました。
その宿舎がこちら妙香寺です。
(因みに、初の陸軍軍楽長・四元義豊と海軍軍楽長・中村祐庸は、この伝習生の一員でございました)
指導にあたったのは英国歩兵隊、軍楽長ジョン・ウイリアム・フェントンでした。
「日本ニ国歌ガ無イナンテ、信ジラレナ〜イ」
国歌をつくることを提案。
そして、フェントン自らが日本の古歌に曲をつけました。
作曲をしちゃったわけです。
かくて、翌年、明治3年9月8日、
明治天皇が薩長土肥4藩の天覧調練の時、演奏されました。
もう、お分かりですね。当地は
国歌発祥地
でございます。
私め、小学生の時に、このハナシを聞き、今日まで
日本国、国歌は英国人が作曲した
と信じておりました。
……嗚呼、それは思い違いでした。
今回、改めての『見て歩き』を通じ、資料も見直したところ、この一文がありました。
「フェントンのつけた曲はヨーロッパのコラール風で日本的ではなかった。そこで明治13年、日本人に馴染みやすい曲想に林廣守氏が改めて作曲した」
思い違いって、怖いですね。
そうそう、初めて鹿児島に行くまでは薩摩焼を薩摩揚げの焼いたものと思い込んでいました。
「間違って覚えていることは他にないかな?」
問いかけている今日この頃です。
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