趣味人が多いタクシー会社、社長の中で
「馬車を走らせるべえ」
観光地の某社長は学生時代、馬術部だったこともあり、こんな企画をされていました。
「オレの道楽さ。オレが祝祭日、御者になるんだ」
趣味と観光のアピール。
そして会社のイメージアップになればとのことでしたが
「ただ、何かとハードルがあって実現するかは半々でね……」
そうそう、オンマさんは生き物です。
もしも何かあったら、いけないわけです。
ーー何かなくても、いけないのがオンマさんのシモです。
明治の御代。
江戸改め、東京を走った馬車は市民から大ブーイングを受けました。
オンマさんは大小便を垂れ流しで闊歩したからであります。
文明開化のシンボル、銀座は馬糞だらけという惨状でした。
これを救ったのが西村楽天という銀座っ子で
「馬糞を地面に落とさせないようにしてやる」
ブリキでカンをつくり馬のお尻につけるようにしたのです。
これを誰いうとなく
「バケツ」
と呼ばれるようになりました。
ーーバケツの語源はここにあります。
おっと、これは洒落でなくて本当の話でございますよ。
(ですから、馬の餌をバケツに入れるというのは…如何なものでしょう)
今回は、そんな馬車にちなんだオハナシです。
由良守応(ゆら・もりまさ)。
この人が日本で初めて馬車を走らせた人です。
由良という名のごとく、和歌山は由良、興福寺の寺侍の家に生まれた紀州藩の郷士でした。
時代背景は幕末です。
ゆえあって紀州藩を脱藩した由良は、幕末の志士よろしく、坂本龍馬の復讐戦、天満屋襲撃に参加するなど大暴れしています。
プロレスラー並みの体格を買われて、お公家さんのガードマンもしました。
これがラッキーでした。
維新でいいポストに取り立てられたのです。
世に名高き、岩倉使節団に加わりましてヨーロッパへと渡ります。 その視察で語学に、法律に、製造業にと、団員たちはそれぞれのヨーロッパ文明を吸収する中、由良は馬車に興味をもちました。
「エッサ、ホイッサ」
日本の乗り物、カゴは二人でひとりを運ぶ。
ところが馬車はひとりの御者が六十人もの人を運んでいる。
この効率性に魅入られたのです。
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「馬車を日本で走らせよう」
由良は御者のたまり場に出入りして馬車の仕事を教わりました。
そして馬車を買い帰国します。
「世の中に馬車を知らせるにはどうしたらいいか」
由良は天皇へ馬車を献上することを思いつきました。
「ご試乗下さいませ」
由良が御者となって天皇皇后を乗せて皇居の廻りを一周するという一大デモンストレーションを展開しました。
ところが思わぬアクシデントに見舞われてしまいます。
お堀の一部が切れていて馬車が横転したのです。
その勢いで、畏れ多いことに、天皇と皇后を池に落としてしまいました。
明治天皇は泳ぎを知っていたのでよかったのですが、皇后は泳げません。
さあ、大変。由良は池に飛び込んで
「お抱き申し奉ります」
皇后を抱きかかえて助け、最悪の事態は防ぎました。
ところが、これが大問題だったのです。
由良は不敬罪になってしまいました。
それは皇后を前から抱いちゃったからです。
後ろからだったら救助という解釈でした。
これが新聞に載って皮肉にも馬車は一躍有名になっちゃいます。
日本史上、この一件を
お召馬顛覆事件
かくて由良は
「正七位・皇宮御馬車掛」
をクビになります。
そればかりか、嫌気がさして官を辞してしまいます。
しかし、日本で馬車を走らせる夢は捨てませんでした。
土佐の海援隊、陸援隊OBと親しく、また伊藤博文とは誼があったので、それら偉いさんに話をもちかけての工作が実り、野に下って乗合大馬車開業。
ついに二階建ての馬車運転を始めました。
さあ、その経営たるや如何?
由良という人は商才がありました。
紀州藩の郷士とご案内しましたが、実は苗字帯刀を許された村の庄屋さんだったからです。
商いの基本は子供のうちに仕込まれていました。
その素養の上に、志士時代は商都大阪、王城京都をはじめ、日本各地を巡り、ヨーロッパまで見聞したわけですから当時の豪商なみの知識があったわけです。
あっと驚く経営手腕を発揮し始めました。
御者募集 但し美男子に限る
今風に申せば、ジャニーズ馬車といったとろでしょうか、イケメンな男性だけを御者に採用したのです。
由良の戦略はさらに続きます。
歌舞伎で馬車の物語をかけさせました。
現代に置き換えれば
「タクシーに乗りたくなるようなドラマをつくれ!」
で、あります。
……このあたり、同じ紀州出身の紀伊国屋文左衛門が歌舞伎の中でスポットCMをうったのに通じますね。
こうした由良のイメージ戦略の効果は甚大でした。
文明開化のハイカラさんのハートをしっかりとつかみ、馬車会社『千里軒』は帝都最初の交通機関として大盛況となりました。
「きゃあ〜っ、御者さん素敵〜」
一番ハートをつかんだのは女心でした。
「お慕い申し上げます」
それは、いい男を集めすぎたリスクでした。
何人もの女性が馬車の御者に見とれてケガをするという事故が起きてしまったのです。
乙女心をつかみ過ぎちゃったんですね……。
かくて営業停止。
……由良守応。
この人の人生はシーソー・ゲームのようですね。
「東京で走れないなら」
由良はくじけませんでした。
「帝都内から千里の道の第一歩、宇都宮、日光、白河行きの馬車でござ〜い」
なんと、長距離馬車の運行を始めたのであります。
長距離となったので社名の方を千里軒から『万里軒』と変更しました。
そんな洒落っ気が由良の真骨頂といえましょう。
その後、万里軒は大日本発動機製造株式会社へと発展していきました。
由良は、この他にも牧牛場、牛乳店、牛肉割烹など手広く展開して実業家として大成功をおさめます。
「めでたし、めでたし」
で、終わらないのが由良らしいところです。
男として仕事面はよろしかったのですが家庭は不幸でした。
愛妻と子供を立て続けに亡くし、よほど失望したのでしょう、事業全てを解散して故郷・和歌山に帰りました。
……歴史のスターは現在、由良興国寺、境内の片隅、無縁墓地に眠っています。
「馬車を走らせるべぇ」
私め、観光地を走る馬車を見かけるたび由良守応の事績と、この格言がアタマに浮かびます。
「古人のしたことを求めず。古人の求めたものを求めよ」
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